申命記7:6−11/ガラテヤ3:23−4:7/ヨハネ15:12−17/詩編119:9−16
「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」(ヨハネ15:15)
中学を出て高校に入学するにあたり、いくつか提出しなければならない書類の中に「保証人」というものがありました。わたしは秋田県横手の中学校を卒業予定で、新潟県にある敬和学園高等学校に入学するための準備をしていたのですが、新潟市内に知り合いなどいません。牧師に相談したら「新潟教会の牧師にお願いしたらどうだ」ということになりました。
で、寮に入る準備もあったので入学式の前に両親と新潟市内に宿泊し、翌日新潟教会に出かけていって、初めて新潟教会の髙橋勝牧師と会いました。敬和では日曜日に教会の礼拝に出席することが奨励されていましたが、特段の関係ある教会はありませんでしたので、新潟教会の礼拝に通うことも含めて牧師に「保証人」になっていただくお願いをしたのです。
その書類のフォームには「本人との関係」を書く欄がありました。今でもハッキリ憶えているのですが、髙橋牧師は万年筆でさらさらとその欄に「友人」と書いたのです。初対面の、しかもえらく年の離れている15歳の少年を「友人」としてくれるこの牧師はいったいどういう人だろうと、とても驚きました。
あとから考えると、新潟教会の牧師であれば敬和に入学する生徒の保証人をお願いされることは牧師の通常業務の範疇だったのでしょうし、その際に「友人」と書くこともいつものことで、そういう多数いる内の一人がわたしだったに過ぎなかったのだと思います。でもあの時、牧師館の居間で初老の牧師が15歳の少年を「友人」とした、「友人」と書いてくださった事実を、わたしはこの年になるまでありありと憶えている。それほどちょっとした衝撃だったのです。
余談ですが、わたしはその年のクリスマスにこの髙橋牧師から洗礼を受けるわけですが、前にも話したとおり髙橋牧師は年が明けた3月には新潟教会を辞任することが既に決まっていて、わたしともう一人クラスメートの原田への授洗は、先生にしてみれば置き土産程度のことだったのでしょう。で、髙橋牧師は新潟教会を辞任した4月からなんと東京の番町教会の牧師として赴任し、その後わたしは長期休暇などで東京に出るチャンスがあれば、中央総武線を市ヶ谷で降りて麹町日テレ本社横の番町教会に度々通ったのでした。因みに、だからわたしにとって「市ヶ谷」は千代田区だとばかり思っていまして、四谷に住んですぐに「市ヶ谷」が「新宿区」だと知って驚くわけです。ところが、JR市ヶ谷駅の住所は千代田区5番町ですからあながち間違いではありません。縁は尽きないものです。
話を戻して、初老の牧師が15歳の少年を「友」と呼んでくださったその衝撃を思えば、弟子たちを前にイエスが彼らに向かって「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」という言葉を発したことが弟子たちにとってどれ程の衝撃なのか想像がつきます。わたしたちはイエスを「主」、つまり「キュリオス(キュリエ/キリエ)」と呼ぶのが通常で、それは尊敬の意味もありますが、それ以上に「イエスはキリスト、神の子である」との信仰告白の意味も含まれてあるのです。15章全体はイエスの告別説教ですが、14章には弟子とのやりとりも書かれています。トマスやフィリポやイスカリオテではない方のユダが登場しますが、彼らはイエスのことを「主よ」と呼びます(14:5,8,22)。もちろんそれらはヨハネの編集句である可能性はありますが、それでも弟子たちにとってイエスが単なる師匠を超えて信仰の対象であると少なくともヨハネ(とその教会)は考えているわけです。
その主が、信仰の対象であるイエスが弟子たちを「友」と呼ぶ。しかも、友と呼ばれる弟子たちの方に、友と呼ばれるに相応しい某かの成果とか、友と呼ばれる当然の権利とかは全くないわけです。そんなことではなく「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」(15)と書いています。弟子たちは主であるイエスに仕える僕ではなく、神から聞いたことをすべて弟子たちに告げ知らせたから弟子たちが「友」なのだというのです。友と呼ばれる側に何もいらない。クリアしなければ呼んでもらえないハードルなどひとつもない。そしてむしろ、弟子たちがそうであることを神ご自身が望んでおられるというのです。「わたしがあなたがたを選んだ。…わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(16)。
わたしたちは、徹底的な神の自由によって初めて、滅びを免れ、救われるのです。わたしたちが何かできたからとか、滅ぼすには惜しいほどの才能に恵まれているとか、そういったわたしの側の理由など一切なしに、神が救いたいというその自由な思いによってわたしたちは救われたのです。であれば、その神さまの自由を、一体どのような理由によって、人間に過ぎないわたしたちが、遮ったり枠を嵌めたり限度をつけたりすることができるでしょうか。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたの意志によって、あなたの思いによって、あなたの計画によって、わたしは救われました。救われるための試験など受けたこともないし、仮にそのような試験があったとしても、ほとんど合格など出来ないのが確実でありながら、あなたはわたしを救うとお決めになりました。そしてわたしだけ特別ではなく、あなたがつくり、今生きていることを赦されている全ての者が、あなたによって救われているのです。わたしたちの主はそのことをわたしたちに知らせで下さいました。ご自分の命を十字架でほしいままに殺されることによって、神さまのご意志が本当であることが知らされたのです。なんということをわたしたちはしでかしてしまったのでしょう。にもかかわらずあなたが私たちを愛し、赦し、救って下さることを心から感謝します。主は「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」と仰いました。既に救われた者として、主の命じられたこと、互いに愛し合うことをこの地上で実現することが出来ますように、わたしたちを導き支えてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。